イギリスの学会のあと、本当にあわただしい時間が過ぎていますが
(Lala TV「鏡リュウジの星ものがたり」収録やら
雑誌の取材やらで一日とびまわっています)
イギリスのでの学会で刺激をうけたので、ちらほら本も読まねばと思っております。
パトリック・カリー氏は占星術を、世界の再魔法化、という概念で
評価されようとしています。
カリー氏は
いかに厳密なかたちで、合理化、世俗化してしまった近代人が
占星術という営みを理解できるか、ということに占星術理解がかかっているといいます。
マックス・ウエーバー流にいえば、世界の魔法が解けてしまった近代のなかで
いかに魔法の世界を理解できるのか、ということ。
氏は歴史学者として出発していますが最近は、社会・文化人類学の
知見を大きく取り入れようとされているようで、とても興味深いです。
たとえば、いわゆる「未開」社会の人びとが呪術を行うとしますよね。
一般にアカデミックな学者はその呪術の効果を信じることはできない。
祈祷をしても、豊漁になるとは限らない。しかし、その儀礼は継続的に
行われていく。もっといえば、現代の都市でも占いや呪術はすたれることはまれです。
ほかならぬ僕がそうですし、このブログをみてくださっている方の多くも、
占いや魔法の実践を受容されているでしょう。
それはなぜなのか。
100年も前の人類学者なら、それは「未開」社会の人の心理や
占いを信じる現代人は、「子供」や「古代人」のように(カッコつきで書いていることに留意してくださいね)意識性が弱い、非合理的な思考をする、ひどいばあいには病的なのだ、遅れている、と考えました。あるいは社会が不安定だから、呪術的な行為にすがって心理的な安寧を求めるのだ、とか。
人類学の世界ではこのような粗雑な枠組みはとっくに
放棄されているはずなのですが、一般のなかではこうした進化論的な理解の枠組みは、いまだに残っています。ほら、よくあるでしょう?「占いに依存する女たち」といった
特集が。
多くの場合、このような記事やテレビの背後にある考えは、当たりもしない占いを
信じるなど、どこかおかしい。そのおかしさには理由があるはずだ、という構えが前提になっているのです。これは100年前の人類学者とさほど違いがありません。
その後、人類学では「機能主義」的なアプローチが登場します。マリノフスキーなどといった人がそうです。
たとえば、呪術の儀式を通して心理的な暗示があり、
結果的に効率があがるのだ、プラシーボだ、あるいは民族社会では
儀式を通して社会の結束が高まるのだ、だからたとえ効果がなくても呪術や儀式は続いていく、とか。
これは先の進化論者や病理論者と比べて、ずっとマシではありますが
しかし、やはり呪術には効果がない、と切り捨てる近代的中心主義、自文化中心主義からは抜けているとはいえません。
エヴァンス・プリチャードやヴィクター・ターナーなどの理論をもってしても、
レヴィ=ストロースのあざやかな構造論を使っても、呪術や占いの世界を
内部から、また外部からともに理解し記述することはいまもってできていない、というのが
パトリック・カリー氏の論文の立場であり、占いを実践する人間でありつつ
自らが行っていることを理解し記述したいという果敢な試みが今回の
学会を貫くテーマでもありました。
占いを実践していてもそれは「趣味」として蚊帳の外におき、単に外部的に占いを考えるのではなく、また占い的な現象が近代的なパラダイムのなかでも「存在する」ことをやっきになって証明しようとする超心理学や統計学的なアプローチでもなく、自らの方法論をメタのレベルで反省しつつ、自分たちが愛してやまない「占い」を研究しようとする
人たちが集まったことには本当に刺激を受けました。
そんな方たち・・・つまり
グレゴリー・ショウ、ピーター・ストラック、テドロックといった方々はお恥ずかしながら
今回の学会に出るまで存じ上げない方々でした。
あわててかれらの本を取り寄せて読もうとしているところです。
また、京都でのある大学の研究会に「研究協力者」として参加させていただくことにもなりました。こちらも楽しみです。
イギリスのこの会とも強く共振するテーマをもった研究会ですので
また、ここで勉強させていただいたことも何らかのかたちでみなさんに還元していきたいと
思います。
「ソウルフル・タロット」や「ルーン」などにもこうしたメタのレベルでの研究の成果がとりいれられるといいのですが。