3月9日 クロウリーが歌う海王星への賛歌
20世紀最大の魔術師、ともいわれるアレイスター・クロウリー。
占いの世界では、あの「トートのタロット」の
製作者としても知られています。
詩的な才能と伝統的なキリスト教への強烈な批判で知られる
鬼才、クロウリーはいまでも多くの人々に強い影響を与えています。
そのクロウリーが占星術の教科書を
書いていることはご存じだったでしょうか。
1927年、30年に、アメリカの著名な
占星術家エヴァンジェリン・アダムスの名前で出版された
本が実はクロウリーのテキストだったのです。
今ではクロウリーの衣鉢を継ぐOTO(東方聖堂騎士団)が、
詳細な注釈を付けたかたちで復刻していますし、
また、以前にはクロウリーの伝記も書いているジョン・サイモンズが
編集してペーパーバックでも出ていました。
(こっちはずいぶん前に買っているんですが
本の山のなかでどこにあるんだか…)
今回、海王星のシンボリズムについての講座を
やらせていただくにあたり改めて
このテキストを開いてみると、なんと、美しい……。
海王星のシンボリズムについての
見事で詩的な叙述にぶつかりました。
おりしも、鎌田東二先生主催の「モノ学」シンポジウムにおいて
ロマン主義について発表しなければならなかった
ということもあったのですが
これがみごとにロマン主義そのものを
表わすようなイメージと言葉に満ち満ちていたのです。
クロウリーがこの本を書いた時代には、
まだ冥王星は発見されておらず、海王星が太陽系の
最果ての惑星だとされていました。
(いまでは冥王星が「惑星の定義の制定によって降格」
されたために事実上、海王星はふたたびもっとも遠い
「惑星」となっていますが。)
クロウリーのイメージでは、海王星は太陽ですらが、
星座をつくっているようなほかの星のひとつと同じくらいの
大きさにしかみえない、暗く孤独な空間をまるで
隠者のごとく放浪している天体だということになります。
まるで何百年もの間、星の暗い海のなかで
隠遁の祈りをささげている修道士のような星だ、と。
しかし、その孤独、孤立の中で人をして
夢を見続けさせる何かがある、というのです。
「手の届かぬ貴婦人の前にひざまずく騎士の胸のうちに
きらめく星のような夢ばかりではなく、おとぎの窓から
透かし見える、かすかな夢」のようなものが。
「港にたどり着こうとするのは、海王星の本望ではない。
愛と友情を強く求めてはいても、それを
手にいれてしまうときには海王星はそっと身を引くだろう。
無限のものへの渇きなど、いかにして満足させられるというのか。
海王星は人類の無際限の精神そのもの。
天空ですら、その欲望に対しては狭すぎる。」
ここからはとくに気に入ったので原文で。
He(neptune) knows that Love is un attainable.and so he plays at love. He knows that happiness is beyond his reach, and so he seeks it by a violation of the limits of exsistance.
手に入らないがゆえに愛する。求める。
それがとても大事なこと。
それは、目標が遠いからどこまでやってもきりがない、
という職人のような意識とは違います。
原理的にけして手に入れることはできない。
だからといってニヒリズムに陥るのではなく
この世ならぬ理想であるがゆえに、この世のものと
同一視しないでその面影を追いかけ続ける、というスタンス。
どこか病んでいるような気もしますが、
その病を引き受けることもまた、海王星的な感覚です。
いま、不況の影響もあってすぐに結果の出るような
セルフヘルプ的なものばかりが注目されがちですが、
こういう手に入らないがゆえに美しく
貴重なものへの感性もまた、大事だと思っています。
そして、その病に耽溺もせず、こういう海王星的な領域を
どこかに守る力を養ってゆくことも。
なんだかとりとめない海王星的な戯言でした。

















